他人と比べて身長が低い、学歴が低い、年収が低い、仕事ができない・・
人間誰しも、自分と他人を比較して落ち込むことはあります。
でもそういう比較グセがいきすぎると、普段からコンプレックスや劣等感に苛まれるようになり、自分がどうしようもなくとるに足らない人間に思えて辛い気持ちになります。
ついつい他人と自分を比較してしまって劣等感にまみれて辛い、苦しい、そんな方向けに「ネガティブな頭の使い方を変えてラクに生きていけるようになるヒント」を心の使い方の観点から紹介します。
あなたが持っている価値基準は絶対ではない
まずはじめに声を大にして言いたいのは、今あなたが劣等感を感じている原因となっている価値基準は絶対ではないということです。
時代や場所が変われば人々の当たり前は変わります。
私たちは、価値のモノサシは絶対的で、当たり前で、誰しも同じような価値観を共有していると捉えがちです。
でも、よくよく考えると、あなたや周りの人たちが持っている価値基準は、決して当たり前のものではないんですよね。
昔からあったものではないし、今後もあるとは限らないものです。
優劣の基準なんて絶対ではないのにそんなものに振り回される必要はない!と私は言いたい。
例えば、会社で出世している方が偉いというモノサシ。
今でいう「サラリーマン」という働き方が一般的になったのは、1960年頃、高度経済成長期に突入してからのことです。
この頃は、戦争の影響でモノやサービスが不足しており、モノを作れば作るほど売れた時代でした。
消費が伸びていく中、多くの会社が終身雇用や年功序列制度を採用して、労働者の囲い込みを行い、長期雇用が一般的になっていった時期にあたります。
同じ会社で長く働けば働くほど給料が上がり、役職も上がるわけで、多くのサラリーマンが入社した会社での成功を目指すようになりました。
「同じ会社で長く働き、出世することが偉い」という価値観が生まれたのは、この頃。
現在からわずか半世紀ほど前にすぎず、よくよく考えるとかなり最近のことなんです。
さらにいうと、100年前には会社はあっても転職が当たり前で、出世が偉いという価値観は一般的ではなかったですし、そもそも150年以上前は株式会社自体が日本に存在すらしていませんでした。
たまたま私たちが生きている時代が、「出世が偉い」と考えている人が多いだけで、別にこの基準が遥か昔から変わらず存在していたわけではないんですね。
結局、価値基準というものは絶対不変ではなく、時代や場所によって変化するものです。
先日、日本を代表する大企業トヨタ自動車の社長が「終身雇用の維持は難しい」との発言をし、話題になりました。
グローバル化、高度情報化に伴い、市場環境の変化が加速し、企業の平均寿命がどんどん短くなっています。
一方で、日本人の平均寿命は伸びており、もはや一つの会社でずっと働き続けるということは現実的でなくなりつつあります。
そんな時代背景で、会社での出世を目指すよりも、どんどん転職をして待遇の良い会社に移ろう!という転職前提の考えが当たり前の世の中になってきています。
昔ながらの「出世が偉い」という価値観も変わりつつあるわけです。
今あなたが持っているモノサシや価値基準は絶対のものではなく、時代や場所によって移ろいゆくはかないものです。
今後も同じようにみんなが信じていくとは限らないですし、そんな頼りない世間の基準や評価に振り回される必要はあるのかなーと思うんですよね。
優劣の基準なんて絶対ではないのだし、そんなもので他人と比べて劣等感を感じ、自分を苦しめる必要はないと思います。
他人との比較は終わりのない苦しみ
もう一つ伝えたいのは、他人との比較には終わりがないということです。
そもそも、私たちが他人とついつい何かを比較したがるのはなぜでしょう。
それは、「私を認めてほしい」、「自分が価値ある人間だと思いたい」という承認欲求を満たしたいからです。
承認欲求を満たすために他人よりも優れている点を必死に探そうとします。
承認欲求は誰しもがもっているものですが、「自分が大したことない人間だと思われるのが怖い」と、必要以上に固執すぎると苦しみの原因になってしまいます。
承認欲求が苦しみの原因になる理由は、承認の追求には終わりがないからです。
例えば、友達と比べて良い大学に入れた。良い企業に就職できた。
そこで満足できるかと言われると、その状態に慣れていくのが人間。
その次は収入、その次は出世、他の指標でも他人より優れていたいと思いはじめます。
あるいは、収入を求めるにしても、ある程度のところまでいったら次はこれだけ稼ぎたい、次はこれ、もっともっと・・とどんどん高い水準を求めるようになります。
承認欲求は食欲などと違って精神的なタイプの欲望であり、他の欲求と比べて歯止めが効きにくいです。
で、欲求に突き動かされて周りとの比較競争に邁進した結果、満足を得られるかというと、残念ながらそうはなりにくいんですよね。
承認欲を満たすことができる記号、地位やお金、学歴は数に限りがあります。数が限られているからこそ皆がそれを求めて競争しているのです。
ある程度のところまで行けても、自分より上の人間は必ずいます。
他人よりも上に立つことに執着しますと、どこまでいっても上の人間はいますから、なかなか手に入れたものだけで満足できにくいです。
頑張って手に入れたものなのにそれに満足できないと、どうしようもなく不幸を感じます。
他人と比較ばかりしていると不満足を得られずにはいられないようになることがわかりますね。
他人との比較が苦しみの原因になっているのならば、もういっそ比較することを止めるのが手っ取り早いです。
何かを求め、成長したいと考えるのは人の自然な欲求です。それを捨てろと言っているのではないです。
その欲求をバネに頑張るのはいいのだけど、その欲求を他人との比較ではなく、自分自身が過去よりももっと成長するため、あるいは周りの人に貢献するためといった別の動機にしてうまく使っていきましょう。
要は考え方の問題です。
考え方を変えれば、苦しみの素である劣等感も前向きに頑張るためのガソリンに変わります。
他人と比べて何かで劣っていたとして、そのために劣等感を感じ続けるのはやめませんか。
何か劣っているなと感じるのなら、他人と比べて惨めになるのではなくて、過去の自分よりももっとよくなるために頑張ればいいんです。
価値観や判断基準は周りの刷り込みでできている
いつもあなたが他人と比較してばかりいることって、本当にあなたが大事に考えているものなんでしょうか?
価値観や判断基準は、周りの刷り込みでできているものが実は多いかもしれません。
例えば、あなたは医者の親を持ち、将来は医学部にいくようにと小さい頃から言われてきたとしましょう。
あなたは、両親の期待に応えるため、いやがおうにも勉強をして良い成績をおさめるために頑張らないといけませんでした。実際に高校の同じクラスの友達も受験競争に負けまいと必死に勉強していました。
懸命な努力の末、あなたは医学部に入学しました。
学校を卒業し医者となって働く今、人と会ってまず気になるのは学歴や勤め先のブランドであり、それでもってその人となりを判断するようになっています。
一方で、あなたがもし、田舎の町工場で働いている親を持っていて、親から勉強をそこまで求められなかったとしましょう。
大学進学率の低い地元の高校に入学し、周りの友達は高校をでたら就職するのが当たり前。
実際にあなた自身も高校卒業後は地元の会社に就職しました。そんなあなたは学歴や勤め先のブランドを気にするような人にはなってないはず。
どんな環境で育つかによって価値観って結構変わりそうじゃないですか。
私たちは周りから「これが大事だ」「これは大事ではない」という価値観の刷り込みを絶えず受けています。
気づくと、周りの価値観を自分のものと思い込んでしまいがちです。
私たちが大事だと思っている価値観は、自分で決めたというよりも、周りが言っているからそうだと思い込んでいるだけの可能性があります。
もちろん、自分の価値観は別に他人の意見を丸呑みしていない。自分で意見を十分に吟味してその結果築かれたものだと言いたい人もいるでしょう。
確かにその通りですが、そもそも価値観のもとになっているのは結局他人の意見であり、他人の意見を自分でこれは違うあれは違うと取捨選択、積み重ねて作り上げたのが自分の価値観です。自分の価値観は結局は他人の価値観の上にできているということも事実です。
周りの人だけではなく、メディアやインターネットを通じて遠くの他者からも四六時中モノサシの刷り込みを受けています。
テレビCMは言うまでもありませんね。
例えば、幸せそうな家族をのせた車が話題のお店が立ち並ぶ都会の小洒落た道路沿いを走っていく。車を買えばこんなにハッピーになれますよというメッセージをCMを通じて伝えてきます。
また、SNSでは多くの人が、承認欲を満たすために自分たちの日常を切り取って投稿してきます。
優雅な休日のホテルでの朝食をうつして、こんなオシャレな私を見てくれ、いいなーと反応をしてくれと。
周りの人だけでなく画面の向こうからも、私たちは絶えず価値観の刷り込みを受けています。
ここで考えてほしいのは、あなたが大事だと思っていることは本当にあなたが心から大事だと思えることなのかということです。
他人が作ったモノサシを自分のかけがえのない価値観だと思い込んでいるだけかもしれませんよ。
他人から刷り込まれたモノサシで、自分と他人を比較して劣等感をいだくのは不合理だと私は思います。
今あなたが持っている価値基準が、本当に自分が大事にしていたいものなのか今一度考えてみてください。
もし、あなたにとって大事でないモノサシでもって他人と自分を比べて、自分がもし劣っていても、苦しむ必要はあるでしょうか。
他人との比較による心配は全て妄想である
最後に、比較グセについてもう少し踏み込んで考えてみたいと思います。
実は、他人と比べての勝った負けたということ自体、頭が作り出した妄想です。
妄想ってどういうことかというと、「優れている劣っていると思われている」というのは現実には存在していないということです。
いやいや、確かに人格や性格のようにふわっとしていて明確な基準で差をつけられないものもあるが、
例えば学歴や役職のように現実にきちんと定義がされていて、誰がどうみても明確に差が分かるものもあるじゃないか、と思われる人もいるかもしれません。
確かに、その通りです。学歴は、卒業した大学の偏差値などの基準を用いて明確な尺度で勝ち負けを決めることができます。
でも、周りの人は学歴が他の人よりも低いからといってあなたのことを他の誰々より劣っていると思っているでしょうか?
別にそうとは限らないですよね。学歴はあなたを構成する一要素にしかすぎません。
一要素だけを見てあなたの価値を判断してしょうもない人間だと思う人がいるでしょうか。
そう思われていると考えるなら、それはあなたの気にしすぎです。
他人からどう思われているかを恐れる気持ちは、自分の頭が勝手に作り出した妄想にすぎません。
勝ち負けへのこだわりやプライド、強い自尊心・・
これらはあなたの承認欲求が生まれたものです。
自分という人間を認めて欲しいという承認欲求は人間誰しも持つ自然な気持ちです。
自分の価値は、明確に差が分かるモノサシでもって他人と比較して証明するのが手っ取り早いです。
承認欲求に執着してもっともっとと求める気持ちが強くなると、
他人に遅れをとりたくない、自分に価値がないのではないのかという恐怖、負けたくないという思いがふつふつと生まれてきます。
これらは妄想です。
自分の頭が作り出した妄想で比較をし、勝手に苦しむ というのが他人と比較しがちな人の心理です。
苦しむのが辛いのであれば、この心のプロセスを理解し、そもそも自分は欲求に反応して妄想の中で勝手に苦しんでいるだけだ。
この苦しみには実態がないんだ。ということを理解するべきです。
それを理解すればあとは妄想から降りれば苦しみから脱することができます。